困難を克服する: 竹口未子の人生 by A. Beardsley (ビアズリー)
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私の祖母、竹口未子はとても素晴らしいです。未子が子どもの時に、彼女の人生はとても大変でした。
この話は読むのがつらいかもしれません。
1944年6月にアメリカがサイパン島を攻撃した時、未子はサイパンに住んでいて、2歳半でした。
未子の母は未子と未子の姉を連れて、島に住んでいた民間人と一緒に洞窟へ
避難しましたが、そこに遅く着いたので、洞窟の入り口にとどまることをよぎなくされました。アメリカ海兵隊が攻撃した時、
彼らの機関銃の弾丸が未子達の頭上を通って、
洞窟の中ではね返り、洞窟の奥深くに避難していたほとんどの人が死にました。
未子の母は未子と未子の姉を、現在「バンザイポイント」として知られているがけに連れて行きました。
日本国は、アメリカ人に捕えられたら、「ごうもんされる。それは死を意味する」と島の人に伝えました。
アメリカ人に捕えられると思って自殺することを選んだ他の千人の民間人と一緒に、
未子の母は自分の腰の周りに重い岩を
ロープで結び、次に娘達の腰に結びました。
その後、崖から数百フィート下の水に飛び込む
準備をしました。当時7歳だった未子の姉の幸子が母を
説得して崖から離れ、
アメリカ人の所に行くと、チャンスをつかんだのです。そのおかげで私も今日ここにいます。
戦後、アメリカ軍は未子とその家族を沖縄にある彼らの家に移しました。
沖縄もそこでのひどい戦いによって完全に荒廃していました。
未子の家族は、予備の板金と廃材で作られた家に住み、
土の床に掘られた穴で料理しました。
悪天候が発生するたびに、彼らの家は吹き飛ばされて
再建しなければなりませんでした。
未子は家族のために、きれいな水を手に入れるために毎日何マイルも歩かせられて、しばしば空腹でした。
彼女の幼なじみの多くは、地雷を踏んだり、
不発弾で遊んだりして亡くなりました。
ありがたいことに、沖縄の状況は徐々に改善されました。
彼女の苦難は少しずつ減っていきました。
私の人生はやりがいがないと思ったり、私があたえられたものすべてに感謝していないことに気付いたりする時、
私の父と私がここにいるのは私の祖母、未子のおかげで、そのために彼女が人生で克服した大きな困難を思い出します。
私は、なるべく感謝すべきです。だから、祖母を称えるために、私はテキサス大学で日本語を勉強することにしました。
This essay has been reproduced with the permission of A. Beardsley.